結論:チベタン・テリアの神経細胞セロイドリポフスチン症(NCL)は、ATP13A2(CLN12)遺伝子エクソン16の1塩基欠失 c.1620delG が原因で、常染色体劣性遺伝の中年(晩期)発症型(およそ5〜7歳)です。DNA検査でわかるのは遺伝的な保因状況と繁殖情報であって、臨床診断ではなく、発症時期や進行速度を予測するものでもありません。現時点で根治法はありません。愛犬に関連症状が疑われる場合は、早めに獣医師(とくに神経科)へご相談ください。
NCLとは?チベタン・テリアのATP13A2の仕組み
神経細胞セロイドリポフスチン症(NCL、しばしば「犬のバッテン病」とも呼ばれます)は、遺伝性の神経変性疾患の総称です。Katz 等(2017)の総説によると、その核心はリソソームの分解機能の障害にあり、セロイド(蝋様質)とリポフスチン(脂褐素)からなる脂色素が神経細胞をはじめ多くの細胞に進行性に蓄積します。成熟した神経細胞は分裂で「ゴミ」を薄めることができないため蓄積体が増え続け、最終的に脳・小脳・網膜の神経細胞死を引き起こします。
チベタン・テリアの場合、原因遺伝子は ATP13A2(別名 CLN12)です。ATP13A2 はリソソームに存在し、ポリアミン(スペルミン)を排出する P5B 型 ATPase で、その機能不全がリソソーム障害と蓄積を招くと報告されています(van Veen 等 2020)。チベタン・テリアではこの遺伝子のエクソン16に c.1620delG の1塩基欠失があり、エクソンスプライシングエンハンサーを壊してエクソン16のスキッピングを起こし、タンパク質が約69アミノ酸短くなります(Wöhlke 等 2011;Farias 等 2011)。この変異は中年発症NCLと完全に関連し、常染色体劣性で遺伝します。
チベタン・テリアでの発症の現れ方
アオイ今5歳で元気そうなんですが、早い段階のサインはありますか? 森下 慧Wöhlke等(2011)によれば発症はおよそ5〜7歳、最初は夜間の視力低下が多く、その後に進行性の運動失調と行動の衰えが記録されています。早期発症のNCL(たとえば英国セターは生後12〜18か月ごろ発症)と違い、チベタン・テリアのATP13A2型は 中年発症で、発症年齢はおよそ5〜7歳です(OMIA:001552-9615)。飼い主が最初に気づきやすいのは暗がりでの視力低下(夜間や薄暮での見えづらさ)で、夕方の散歩や消灯後の室内で物にぶつかったり、動きをためらったりします。
進行すると、ふらつきや協調運動の低下といった小脳性の運動失調、覚えた行動を忘れる・見当識の障害・不安や性格の変化(いわゆる「犬の認知症」に似た状態)といった認知・行動の衰え、睡眠の乱れが現れ、最終的にてんかん様の発作がみられることもあります。ただしこれらは「報告に基づく一般的な経過」であり、個体差があり、また同様の症状はNCL以外でも起こりうるため、確定には獣医師の評価が必要です。
遺伝様式と保因者検査の意味
アオイうちの子は「保因者」なだけなら、本人は発症しないんですか? 森下 慧発症しません。Wöhlke等(2011)では専性保因者35頭がすべてヘテロ接合で臨床的に正常、2コピー持つホモ接合だけが発症でした。ATP13A2型NCLは常染色体劣性遺伝です。犬が発症するには、両親それぞれから c.1620delG 欠失を1つずつ受け継ぐ(=ホモ接合)必要があり、コピーを1つだけ持つ保因者(ヘテロ接合)は臨床的に完全に正常ですが、変異を静かに次世代へ伝えます。Wöhlke 等(2011)の元コホートは説得力があり、患犬24頭はすべてホモ接合、専性保因者35頭はすべてヘテロ接合と、遺伝型と表現型が完全に一致しました。
ここに繁殖前DNA検査の価値があります。保因者は見た目が健康で肉眼では見分けられず、遺伝子検査だけが検出できます。保因者を特定できれば「保因者×保因者」の交配を避ける(たとえば保因者を clear の正常犬とのみ交配する)ことで、患犬を生まずに血統の遺伝的多様性を保てます。実際、英国での DNA 検査導入後、変異アレル頻度は 0.20〜0.28 から 0.09〜0.14 へ低下したと報告されており(The Veterinary Journal 2014)、遺伝子プールが比較的限られるチベタン・テリアではとくに重要です。
どう検査するか(日本国内での道すじ)
アオイ日本でATP13A2の検査を受けたいのですが、具体的にどこに頼めば? 森下 慧OFA登録のチベタン・テリアNCL検査は米ミズーリ大学が扱います(2024)。海外へ検体を送る場合は税関と検疫の規定を先に確認してください。日本国内では、大学の獣医学部附属動物病院や、アニコム(Anicom)系の遺伝子検査サービス、あるいは Embark など海外パネルの輸入を経由する方法が現実的な選択肢です。いずれも品種判定や一部の遺伝性疾患スクリーニングを提供しますが、注意したいのは、すべての国内メニューがチベタン・テリアの ATP13A2(c.1620delG)という具体的な座位までカバーするとは限らない点です。購入前に「Tibetan Terrier NCL / ATP13A2 を含むか」を必ず確認してください。海外の権威ある実験室(米国 UC Davis VGL、OFA 提携のミズーリ大学、欧州の Laboklin 等)へ検体を送る場合、犬の血液や口腔スワブは動物由来生物材料にあたり、越境郵送は税関や検疫の対象になりうるため、運送業者や税関に事前に確認するのが安全です。費用はすべて円(JPY)でも「参考価格」として理解し、実際は各社の当時の見積もりに従ってください。繁殖・登録の面では、JKC(ジャパンケネルクラブ)の血統登録の枠組みの中で、繁殖計画のある飼い主が検査結果を活用できます。
DNA検査でわかること・わからないこと
アオイこのレポートで、結局どんな確かな情報がもらえるんですか? 森下 慧わかるのは遺伝型(clear・保因者・患犬)と繁殖の指針です。臨床診断は獣医神経科の評価によります(OMIA;Katz 2017)。ATP13A2 の DNA 検査でわかるのは、その犬の遺伝型です。正常(clear、欠失を持たない)、保因者(ヘテロ接合、1コピー)、患犬の遺伝型(ホモ接合、2コピー)のいずれかがわかり、これをもとに賢い繁殖判断(たとえば「保因者×正常」は患犬を生まないので選べる)ができます。一方、わからないのは、この犬が今すでに臨床的な病変を持っているか、症状がいつ出るか、どれだけ速く進むか、です。本当の臨床診断は獣医師(とくに神経科)が病歴・神経学的検査・画像などを組み合わせて行うもので、遺伝子レポートだけで結論づけるものではありません。
2点補足します。第一に、NCL には現時点で根治法がなく、対症・支持療法とQOLの維持が中心です(Katz 2017)。第二に、本記事は情報提供であって投薬・診療の指示ではなく、治療の開始・中止・変更を自己判断で行うことは勧めません。なお、中年発症NCLがすべて ATP13A2 によるとは限らず、日本犬の四国犬の成人発症NCL例は既知の ATP13A2 変異2座位いずれも野生型だったと報告されています(Nakamoto 等 2021)。愛犬が患犬の遺伝型と判定された場合や、視力・歩様・認知の変化がみられた場合は、獣医師の評価と管理に委ねてください。
よくある質問(FAQ)
Q. うちのチベタン・テリアがATP13A2の保因者と出ました。発症しますか?
発症しません。保因者はヘテロ接合(欠失を1コピーのみ)で、臨床的には完全に正常です。Wöhlke 等(2011)のコホートでも専性保因者35頭はすべてヘテロ接合で発症していません。発症するのはホモ接合(2コピー)の個体だけです。保因者であることの意味は繁殖にあり、もう1頭の保因者との交配を避ければ問題ありません。
Q. 日本から犬の検体を海外の実験室に送って検査できますか?
技術的には獣医師が採取して郵送すれば可能ですが、犬の血液やスワブは動物由来生物材料にあたり、越境郵送は税関や出入国検疫の規定の対象になりうるため、必ずしも自由ではありません。国内メニュー(大学附属病院・アニコム等、チベタン・テリアの ATP13A2 座位を含むか要確認)や、Embark 等の輸入パネルの利用も検討し、不確かな規定は運送業者と税関に事前に確認してください。
Q. 費用の目安はどのくらいですか?
本記事の価格はすべて「参考価格」であり、国内サービスか海外パネル輸入か、検査項目の範囲、採取・郵送費の有無で大きく変わります。円(JPY)建てで案内されていても実際は各社の当時の見積もりが優先されます。購入前に、目的の座位(ATP13A2 / チベタン・テリア NCL)が含まれるかと総額を必ず確認してください。
Q. チベタン・テリアのNCLは治せますか?
現時点で根治はできません(Katz 2017)。管理は対症・支持療法とQOLの改善が中心です。DNA 検査が提供するのは遺伝・繁殖の参考情報であって臨床診断ではありません。愛犬の状態が気になる場合は獣医師(とくに神経科)に相談し、治療を自己判断で変えないでください。
参考文献
- Katz ML et al. (2017) Canine neuronal ceroid lipofuscinoses: Promising models for preclinical testing of therapeutic interventions. Neurobiology of Disease. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC5675811/
- Farias FHG et al. (2011) A truncating mutation in ATP13A2 is responsible for adult-onset neuronal ceroid lipofuscinosis in Tibetan terriers. Neurobiology of Disease 42(3):468-474. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/21362476/
- Wöhlke A et al. (2011) A One Base Pair Deletion in the Canine ATP13A2 Gene Causes Exon Skipping and Late-Onset Neuronal Ceroid Lipofuscinosis in the Tibetan Terrier. PLOS Genetics 7(10):e1002304. https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC3192819/
- Selection response to DNA testing for canine ceroid lipofuscinosis in Tibetan terriers (2014) The Veterinary Journal. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24929534/
- van Veen S et al. (2020) ATP13A2 deficiency disrupts lysosomal polyamine export. Nature 578:419-424. https://www.nature.com/articles/s41586-020-1968-7
- OMIA:001552-9615 Neuronal ceroid lipofuscinosis, 12 in Canis lupus familiaris (ATP13A2). https://www.omia.org/OMIA001552/9615/
- Orthopedic Foundation for Animals (OFA) (2024) Neuronal Ceroid Lipofuscinosis — breed-specific DNA test registry (Tibetan Terrier NCL-TT). https://ofa.org/neuronal-ceroid-lipofuscinosis/
- UC Davis Veterinary Genetics Laboratory — Dog DNA tests (Tibetan Terrier ATP13A2). https://vgl.ucdavis.edu/dna-tests/dog
- Laboklin / LABOGEN — Neuronal Ceroid Lipofuscinosis (NCL) DNA tests. https://labogen.com/en/genetic-diseases-dog/neuronal-ceroid-lipofuscinosis-ncl/
検査で調べるには
ペットのDNA検査には遺伝性疾患のキャリア(保因)やリスク指標を含むものがありますが、結果は「情報」であって診断ではありません。気になる症状や確定診断が必要な場合は、必ずかかりつけの獣医師にご相談ください。
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